中世~近世初期(下河辺・古河御陣・古河公方・小笠原時代)の詳細は、わずかな文献の記述があるだけで、ほとんど判らない。 本項では城郭が最も整備された、江戸時代正保年間頃の状態を中心に記述する。
古河城は渡良瀬川と沼に挟まれた微高地上に立地し、南北に曲輪が連なる連郭式と云われる形態をしている。 城下町は北から東にかけての台地上に広がり、日光街道沿いに宿場が形成されている。
広さは、南北約1900m(濠も含む)、東西約400m(川と諏訪曲輪を除く)である。
曲輪配置は本丸を取り囲むように西に二ノ丸、北に三ノ丸、東に東帯曲輪、南に頼政曲輪があり内郭を構成している。 外郭として北に丸ノ内、観音寺曲輪、南に立崎曲輪があり、西の川沿いに西帯曲輪、丸ノ内の東側に諏訪曲輪を構えている。
日光街道近くには、徳川将軍家が日光社参時に、休息に使用する御茶屋がある。