頼政曲輪南側にあり最南端の曲輪だが、奥平氏によりここにあった立崎村を移転し整備したといわれる。
南北約190m、東西約180mの丸みを帯びた四角形状をしており、南側に小郭が付属している。
内部は家臣の屋敷地であったが、江戸後期には頼政神社別当の山伏文殊院が住まう他は空き地となった。
頼政曲輪南側にあり最南端の曲輪だが、奥平氏によりここにあった立崎村を移転し整備したといわれる。
南北約190m、東西約180mの丸みを帯びた四角形状をしており、南側に小郭が付属している。
内部は家臣の屋敷地であったが、江戸後期には頼政神社別当の山伏文殊院が住まう他は空き地となった。