御成門から百間堀を渡った先にあり、本郭と離れて城下の台地の一角を占めているため出城とも呼ばれている。 ここにあった諏訪八幡社が寛永十三年に市内北新町に移っており、その頃土井利勝によって整備された可能性がある。(あるいは御成門を整備した永井氏時代か?)
広さは南北52間、東西65間あり、東が高く西が低い。濠幅は北側9間、東側10間、南側8間で、東側土塁は濠水面より6間の高さがある。
一見して分かるように日光街道を間近に押さえ、守りの上で極めて重要な曲輪であるため、内部は重臣の屋敷が置かれた。
大水で城内が浸水した際は、城主はこの曲輪内の屋敷に滞在している。
北側二重堀の外側堀は絵図によって沼、または捨堀と表記されている。二重堀の間が登城路となり、御成道とも呼ばれる。
虎口は西側の南北各一カ所開き、それぞれ木戸が置かれているのみであるが、土橋がL字形になっており、厳重な構えである。
諏訪八幡社と曲輪の南にある長谷観音は、古河公方足利成氏によって、城の鬼門除けとして勧請されたと伝わっている。