丸ノ内北側から観音寺曲輪へ繋がる虎口で、名称は古河公方時代に連歌師猪苗代兼載の屋敷が近くにあり、桜が多く植えられていたことに由来する。
池田家文庫の古河城図ではこの門を大手としている。
櫓門の規模・外観ともに不明。外側に外枡形状に風子(かざし・茀)と呼ばれる一画が設けてある。
風子の広さは南北10間・東西16間、土塁高さは1間で土塀が巡り、その入口には木戸を置いている。
なお、ここの土塁高さは「濠水面より」と書いていないので、内部平面からの高さだと思われる。
丸ノ内北側から観音寺曲輪へ繋がる虎口で、名称は古河公方時代に連歌師猪苗代兼載の屋敷が近くにあり、桜が多く植えられていたことに由来する。
池田家文庫の古河城図ではこの門を大手としている。
櫓門の規模・外観ともに不明。外側に外枡形状に風子(かざし・茀)と呼ばれる一画が設けてある。
風子の広さは南北10間・東西16間、土塁高さは1間で土塀が巡り、その入口には木戸を置いている。
なお、ここの土塁高さは「濠水面より」と書いていないので、内部平面からの高さだと思われる。