丸ノ内の北側にあり最北端の曲輪となるが、慶長年間に松平康長によりここにあった観音寺(小山観音寺)を江戸町に移し、曲輪として整備された。
南北約280m、東西約350mの曲輪で、四方を濠に囲まれ、西・北・東に土塁を設けている。
濠の幅は北側15間、西側は沼と表記された場所もあり16~36間程で、東側は百間堀と呼ばれていたが実際は45~65間程であった。
虎口は西の船渡門と北の追手門が開かれている。船渡門外には中世以来の船渡河岸があり、江戸後期には船倉も設けられた。
内部は北(標高16m前後)から南(標高15m前後)へと緩い平坦な下りである。
しかし北側城外は猿島台地(標高18m前後)が目前にあり、城内が低いのを補うためか、濠水面より4間という高い土塁(上面標高20m前後)を構えている。
曲輪内部は大部分が侍屋敷だが、北西の角は江戸前期には蔵屋敷が、江戸後期には作事役所が置かれている。
文久2年(1862)には幕府の大名証人制度が緩和され、正室・嫡子の帰国が認められたため、追手門の南側に新御殿が建設される事になったが、明治維新までに完成には至らなかったようである。
城外北側には永井氏建立の永井寺と、土井氏建立の正定寺、小笠原氏建立の隆岩寺があり、いざという時には砦として利用する思惑があったと思われる。
北西角の土塁上には現在、頼政曲輪から移された頼政神社が鎮座しているが、社殿はかつて城内にあった建物であり貴重である。
[国立公文書館]
[国立国会図書館]