御三階櫓は当時幕府の老中であった土井利勝が、寛永十年(1633年)四月に佐倉から古河に移った後、寛永十二年十二月に建てられたと「寛政重修諸家譜」にある。
そして明治六年(1873年)の「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等選定方」(いわゆる廃城令)により取り壊されるまで約240年間、古河城本丸に聳え立っていた。
土井利勝は質素倹約の人だったと云われているが、なぜ物見以外の役に立たない御三階櫓を建てたのか?
この当時すでに将軍家の日光社参が行われており、古河城に宿泊することが通例となっていたので、将軍の宿城としての格式を整え、そして登閣・観望に供する目的で建てたのではないか。
あるいは日光連山を望み、徳川家康(東照神君)に礼拝するためではないかと推測する。
普段の建物内部は保管庫として用いられていたようで、土井利益の転封の際の記録「古河城渡の次第」によると、城付きの銭千貫や鞍替具が保管されていた。 また、何度か盗人の侵入があり、鉄砲の玉が盗まれている。
天保十三年寅五月演舌帳によると、将軍家の日光社参に備えて上段に畳を敷き、その他は薄縁(うすべり)を敷いたようである。
市内の永井寺には御三階櫓の扉より作られたという文机が所蔵されている。 櫓の唯一の遺物だが、扉のどこの部材かは判らないという。
鯱は役場に移設保存されていたが、敷地の工事の際に破壊されてしまったそうである。
立地としては本丸の北西に建っていたが、天守は地形の制約を受けなければ一般に本丸の北西に位置する例が多く、風水の影響があると思われる。
また、入母屋屋根の破風が見える側(正面)を北(城の大手方面)に向けて建っており、天守代わりの櫓として相応しい向きになっている。
御三階櫓が建てられる以前の、この場所がどうなっていたかは資料が皆無で分かっていない。
櫓台は土塁のコーナー部に設けられ、建物周囲には犬走りと呼ぶ広い平場が取り巻いており、その西側と北側はそれぞれ二ノ丸、三ノ丸に面しているため、塀が設けられている。
この箇所の塀は他の塀の倍くらい高いもので、腰高な御三階櫓とバランスを取ったのではないかと思われる。
この高塀には狭間が開けられ、横矢掛かりか石落としのような張り出しも設けられている。
櫓台に登るため南側に石段があるが、幅広で勾配もゆるく、将軍登閣に備えた造りであると考えられる。
この石段や櫓の基壇、礎石など石材は廃城後に売却され、その一部は土井家旧臣の藤懸家の庭石となり現存している。(現在は他家の所有地となっている)