日光街道に面した御茶屋口と呼ばれる入城口の近くにあった、日光社参時の将軍用の施設である。
同様のものは将軍の行き先において各所にあったが、休息に使われるのが御茶屋、宿泊に使われるのが御殿と呼ばれているようである。
初期の日光社参の復路で、古河は休憩のみの場合が何度かあり、そのため街道近くに作られたと考えられる。
広さはおおよそ東西60m、南北100m、周囲に土塁と土塀を巡らしていた。
入口は表門・裏門共に北向きに設けてあり、絵図で見ると両方とも四脚門のようである。
御殿について詳細は分からないが、茨城県歴史館蔵の図を見ると、門の近くが遠侍、奥が主殿、別棟が台所のようである。
これは柏原御茶屋御殿(米原市)の構成と似ている。
創建は徳川実記によると、寛永13年(1636)将軍家光の日光社参時に「土井大炊頭利勝道のかたはらに新築せし茶寮にむかへ奉りて御やすみあり」とある。
廃止については記録が無く分からない。
跡地は空地か鉄砲場になった後、家中屋敷が建てられている。