中世に鎌倉街道がどこを通っていたか諸説あるが、渡良瀬川沿いに近世の城内を縦断し、野渡へ抜けるのが有力なルートとなっている。
古河公方時代の城下集落はこの街道に沿った丸の内~観音寺曲輪~現在の雀神社あたりで営まれてきたものと推定されている。
また、城の南側(立崎付近)に宿という小字名が残っていることから、そちらにも城下集落があったようである。
近世の奥平氏の時代に、町人は東に移されて日光街道の宿場町を形成し、中世の城下集落一帯は武家屋敷地へと変わった。
土井利勝の時に原村を城下に移転させて原町とし、日光街道原町口木戸が設けられた。
増えた家臣団は城下の東側を大きく取り囲むように配置して足軽町を形成している。
城下町を囲む総構は築かれなかったが、現在の宮前町北側の野渡の谷~足軽町~牧野地を取り巻く低地と連続しており、総構を意識した町造りと思われる。
足軽町は後に縮小・消滅したが、古河宿を迂回する道路(祭礼道)として江戸時代を通じて利用されている。
城の搦手にあたる南側には武家屋敷も町家もなく、村の集落が点々とあるだけである。
想像になるが、この方面は交通不便のうえ古河公方末裔の氏女の領地が点在しており、城下町を作りにくかったせいではないだろうか。
源氏本流に近い足利氏の氏女領を古河に残したのは、豊臣秀吉による徳川家康への牽制だったという説もある。
天明三年(1783)の浅間山大噴火の土石流により、利根川水系が毎年のように氾濫し、古河藩領も度々水害を受けるようになってしまった。
このため領内は荒廃し、古河藩三宿(中田宿・古河宿・野木宿)も少なからず影響を受けている。(旅日記に、日光街道で最も貧しい宿場、と書かれている)