本丸と二ノ丸の北側にある曲輪で南北60間、東西117間ある。
虎口は北西から桜町へ通じる三ノ丸門と、北東から小砂町へ通じる桔橋門の二つあった。
三ノ丸門は正保城絵図に「大手」と記されているが、後に大手の役目は観音寺曲輪の追手門に移っている。
三ノ丸門近くには大手の着到櫓として、本丸以外で唯一の櫓が上がっている。
内部の西側に馬屋があり、他は重臣の屋敷地だったが、後には馬場や空き地になっている。 ここは現在の河川敷と同じくらいの標高13m程度しかなく、そのため水害を受けやすい事が理由の一つと考えられる。
正保城絵図によると、三方をめぐる土塁は濠水面からの高さ2~2間半と低く、その上の土塀は三ノ丸門付近に限られ、残りは柵が巡らされている。 濠幅は西側が8間程、北側は12間程、濠深さ4~6尺である。
同図には城下の長谷村付近に、「此所本丸地形ゟ壱間五尺高差渡五町」とあり、長谷村が本丸より約3m高い事が記されている。
江戸後期の城絵図には東側に藪地がみられるが、これは長谷村付近の標高約19mほどの台地から、三ノ丸内部を見下ろされるのを、遮る役目があったものと考えられる。