室町時代後期(古河公方時代)
文安四年(1447)第五代鎌倉公方に就任した足利成氏が、享徳三年(1454)に政治的に対立していた関東管領上杉憲忠を誅殺した。
これにより幕府及び関東管領上杉氏との抗争(享徳の乱)が勃発し、翌年成氏は各地を転戦後に公方御料所の拠点である古河の鴻巣に入り、長禄元年(1457)古河城に移った。
文明三年(1471)幕府・上杉方の攻勢により、成氏は千葉氏の元に逃れるが、翌年に古河に復帰している。
成氏は朝敵とされながらも乱を戦い抜き、ついに文明十四年(1482)和睦が結ばれた(都鄙合体)。これにより享徳の乱が終結したが、成氏は鎌倉には戻れず古河に定着し、古河公方と呼ばれた。
古河城は古河公方初代成氏>二代政氏>三代高基>四代晴氏>五代義氏>氏女の御座所となった。高基以降は公方家の内紛や政治状況により、公方在所が度々変わる事態になるが、古河城は一貫して御本城として扱われている。
天正十八年(1590)豊臣秀吉による小田原征伐により氏女は鴻巣に退去し、古河城はその後、秀吉により廃城を命じられた。
この頃の城域は近世古河城の内郭あたりと見られており、「御本城」が近世の本丸・二ノ丸に、「中城」が三ノ丸に、「蔵曲輪」が頼政曲輪に比定されている。(内山俊身先生 戦国期古河公方城下町・古河の形成と特質)
また公方の御所として、新田庄長楽寺の僧、松陰が記した松蔭私語によると、御所の入口は四足門(四脚門)であったようで、公方の住まいらしい格式を整えていたとみられる。
御所の詳細はわかっていないが、「御本城」の中に洛中洛外屏風図の細川管領邸のような屋敷を、想定できるのでないだろうか。
古河公方時代は戦国時代であり、永正七年(1510)政氏対嫡子・高基、享禄二~四年(1529~31)高基対嫡子・晴氏、天文二十三年(1554)晴氏対後北条氏などの戦いの舞台になっている。古河城で籠城戦が行われたかは不明だが、何れも守城側が城から退去している。
そのような状況のため次第に防備が強化され、城域も拡張されたようで、戦国時代後期には新曲輪などという名称も見られるが、その詳細はわかっていない。

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