室町時代前期(古河御陣時代)
鎌倉北条氏滅亡後、北条(金沢)氏領であった下河辺荘は、足利氏領になったようである。
その後、京都将軍家と鎌倉公方家で領有権の争いがあったが、鎌倉公方家の御料所となり、その代官として野田氏が古河にはいった。
南北朝時代には高師冬が付近に滞在していたり、一貫して北朝方(足利方)であったようだが、資料不足でよくわかっていない。
至徳三年(1386)と応永三年(1396)の小山若犬丸の乱では、鎌倉公方足利氏満の陣所が置かれ古河御陣と呼ばれた。
この時期、野田入道等忠が古河住人となっていたが、小山氏が古河付近にまで侵攻しようとしたので、いわば最前線基地であった。
陣所というものは軍勢の駐屯地であり、交通の要所や城館、寺などを利用して設けるものである。
その実体はよく分かっていないが、同様の陣所であった五十子陣(埼玉県本庄市)は城構えになっていたので、古河御陣も堀や土塁を備え、古河城の原型になったものであろう。
永享記によると結城合戦(1440)の際には、野田右馬助が結城方として古河城に籠城したが、結城城が落城したため落去したとある。
城に残った矢部大炊助は80余人で立てこもり、最後は抜け穴より脱出したと伝わるが、周囲を川や沼で囲まれているので地形的に抜け穴はフィクションと考える。
その後、足利成氏の鎌倉公方就任に伴い野田氏も復権したと見られるが、古河に戻ったかはわからない。
近年の研究では野田氏は下野の野田城に入り、さらにその後に下総の栗橋城に移ったとの説がある。