江戸時代
小笠原氏が転封した翌年(1602)、松平康長(戸田松平氏)が臼井より二万石で入封した。康長は観音寺曲輪を構え追手門を整備しているが、慶長十三年(1608)九月には城内で大火事が起きたようである。
慶長十七年(1612)、戸田松平氏は在城10年で笠間へ転封となり、代わって小笠原信之(松尾小笠原氏)が本庄より二万石で入封した。慶長十九年(1614)に信之が亡くなり、後を子の政信が継いだ。
政信の代には将軍秀忠による初めての日光社参が行われ、古河城に宿泊している。
元和五年(1619)、松尾小笠原氏は在城7年で関宿へ転封となり、代わって奥平忠昌が宇都宮より十一万石で入封した。それまでより家臣が大幅に増えたため、町屋を移動し武家地を拡張して、日光街道を整備している。 立崎曲輪を構えたのもこの時期と云われる。また、将軍秀忠により日光社参が行われている。
元和八年(1622)、奥平氏は在城3年で宇都宮へ転封となり、代わって永井直勝が笠間より七万二千石で入封した。寛永二年(1625)直勝が亡くなり城下の永井寺に葬られ、後を子の尚政が八万九千石で継いだ。
永井氏時代には中田宿~古河宿間の日光街道が整備され、御成門が開かれたと云われている。永井氏時代には秀忠による日光社参が1回、家光による社参が3回行われている。
古河公方末裔の氏女は、豊臣秀吉の命により喜連川氏と結婚したが、引き続き鴻巣に居住し続けた。
そのため古河城の直近に旧領主が居住する、という奇妙な状態に置かれていたが、寛永七年(1630)に氏女の孫の尊信が喜連川に移り、その状態は解消された。
寛永十年(1633)、永井氏は在城11年で淀へ転封となり、代わって土井利勝が佐倉より十六万石で入封した。翌年には城の修築が行われ、本丸に御三階櫓が上げられている。
また、原村を城下へ編入するなど城下町を整備し、日光社参の際に将軍の休息所となる御茶屋を設けている。この前期土井氏時代には家光による日光社参が5回、家綱による社参が2回行われている。
寛永二十一年/正保元年(1644)、利勝が亡くなり芝増上寺に葬られ、後を子の利隆が十三万五千石で継いだ。
万治元年(1658)利隆が隠居し、後を子の利重が十万石で継いだ。ところが、嫡子がいないまま延宝元年(1673)に亡くなり、更に後を継いだ弟の利久も延宝三年(1675)に亡くなり、嗣子断絶で改易となった。
しかし、利勝の長年の勲功により、分家の利益による相続が許され、七万石で主家を再興している。
天和元年(1681)、土井氏は在城48年で鳥羽へ転封となり、代わって堀田正俊が安中より十三万石で入封した。貞享元年(1684)正俊は江戸城で稲葉正休に刺され亡くなり、後を子の正仲が十万石で継いだ。
貞享二年(1685)、堀田氏は在城4年で山形へ転封となり、代わって松平信之(藤井松平氏)が郡山より九万石で入封した。貞享三年(1686)信之が亡くなり、後を子の忠之が八万石で継いだ。
元禄六年(1693)、藤井松平氏は在城8年で忠之乱心により改易となる。
元禄七年(1694)、松平信輝(大河内松平氏)が川越より八万石で入封した。信輝は城内に遠祖頼政が祀られている事を知り、元禄九年(1696)に神社整備を行ったといわれる。宝永六年(1709)信輝が隠居し、子の信高が継いだ。
正徳二年(1712)、大河内松平氏は在城18年で吉田へ転封となり、代わって本多忠良が刈谷より五万石で入封した。宝暦元年(1751)忠良が亡くなり、後を子の忠敞が継いだ。忠良の時に将軍吉宗により日光社参が行われている。
宝暦九年(1759)、本多氏は在城47年で浜田へ転封となり、代わって松平康福(松井松平氏)が浜田より五万四百石で入封した。
宝暦十二年(1762)、松井松平氏は在城3年で岡崎へ転封となり、代わって土井利里が唐津より七万石で入封した。安永六年(1777)利里が亡くなり、養子の利見が継いだが同年中に亡くなり、さらに養子の利厚が継いだ。 文政五年(1822)加増され八万石となる。同年利厚が亡くなり、後を養子の利位が継いだ。嘉永元年(1848)利位が隠居し、養子の利亨が継いだが同年中に亡くなり、さらに養子の利則が継いだ。 慶応三年(1867)利則が隠居し、後を子の利与が継いだが、明治二年(1869)藩籍奉還した。後期土井氏時代には利里の時に将軍家治、利位の時に将軍家慶による日光社参が行われている。
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